大阪を拠点に活動するスポーツメンタルコーチの上田さんにインタビュー。
今回はソフトボールのプロ選手として活躍されていた時のリアルな話も聞かせて頂きました。常に明るく、周りの人を惹き寄せるそのパワーに直撃!

段々と好きになっていったソフトボール
ー 本日はよろしくお願いします。まずはじめに上田さんのスポーツの競技歴を教えて下さい。
小学校まではバレーボール。中学1年の時にソフトボールと出会いました。ソフトボールを始めたきっかけは学校の先生から誘われて半ば強制的にやり始めました。本当は面倒臭いことが苦手だった為、文化部に入り早く家に帰りたかったんですけどね。ソフト部では身長がずば抜けて高く、守備は苦手でした。ただ自分で言うのもなんですがバッテイングの長打力がすごくて、打ったボールが校舎の窓に当たりそうになるくらい打ってました。
ー すごいですね!その後どうなったんですか?
高校進学時は私立高校からの誘いがあったものの人生で初めて母親からの反対を受けました。
ー そうだったんですか。その時の気持ちはどんな気持ちでした?
実は、自分の中でちょっとホッとした部分もあったんです。行きたかったけど寮生活が嫌で、何しろ自分自身が自分のことを自分でできないような人だったので。
あとは「ソフトボールがダメでも勉強があったらそれで生きていけるでしょ」という母からの助言で公立高校に進学しました。
高校進学後も競技を続けましたが、自分の中でやりきった感がなくて、私立高校に進学してたらという後悔がありました。
そこから大学は強いところに行きたいという思いがあって、インカレに10年連続で出場していた大学に進みました。
ー どんな大学生活だったのでしょうか?
大学生活は、周りがみんなインターハイに行ってる選手の集まりだったので、最初はランニングにもついていくことが出来ず、ノックとかも泣きながら取ってました。
とにかく練習についていけなくてそれが本当に辛かったです。ホームシックにもなるし、なんでこんな所に来たんやろうって思ってました。とにかく1日を終えることで毎日必死でした。
ー それを乗り越えられたのはどうして。
当時は日本一になりたいとか目標が全くなかったのですが、先生が日本一になると意気込みがすごくてそれに洗脳されました。
”日本一って目標に掲げるもんなんやと”
初めて気が付きました。だから、これだけのしんどい練習にも耐えられるだと。
同期とは喧嘩も夜中までの練習も沢山のありましたが日本一になるという目標があったから、これは当たり前なんやと思うことが出来ました。
結果、日本一になるという目標は叶いませんでしたが、当時の仲間とは今でも仲が良いです。
実業団の世界へ

ー 仲間の存在も上田さんを支えていたんですね。その後、実業団への駒を進められたんですか?
大学3年の時に進路を決めるんですが、その時はソフトボールではなく警察官か自衛隊に入りたいと言ってました。
試験勉強をしながらも3年の冬に監督から「シオノギ製薬が合宿をやってるからお前行ってこい、お前なら大丈夫や!」と意味深なことを言われその合宿に参加しました。
ただその合宿が初めての参加なのに、初めからすごく怒られて、「何やこのチーム」と思って帰ってきたんですがが、後日もう一回練習に来て欲しいと言われました。
もうソフトボールをやるつもりはなかったのですが、セレクションを受けに行きました。そしたら、リーグ戦でこれまでホームランを打ったことなかったのに紅白戦でホームランを打ちまくってしまい自分自身にびっくり。そして同期の中でも一番初めに就職が決まりました。
ー やるつもりがなかったのにやってみたら考えが変わった。その上田さんの背中を押してくれたものは何だったんですか?
一番の背中を押したのは父親の言葉ですね。一緒に走りに言った時に「もうソフトは辞めるんか」と聞かれ辞める返事をすると「まだやって欲しいな」とすごく寂しそうな声で言われたので・・・。
あと一つあったのは、他の選手は実業団のチームから声がかかってるのに自分だけ来なくて、それが恥ずかしくて嫌で、本当はソフトをやりたかったのにやりたくないと思ってたんやと思います。
ー その自分の気持ちに気づけたのは素晴らしいですね。
シオノギ製薬入社後は、問題児でしたけどね(笑)。自分の意見を周りの状況考えずにガンガン言ってました。タテ社会の中で。素直になれなくて、チームから孤立してしまい、意見を言うのも嫌になってしまってました。
自分の行動も伴ってなかったから、試合も出られない、考えも伝えられないし、人の言うことも聞けないし、自分がどこへ向かっているのかわからない状態でした。
そこで身体を崩してしまい考えがいつも”消えてしまいたい”とかマイナスなことを考えることもありました。だけど辞めたら親や監督に迷惑がかかる…、だけど逃げたい…の繰り返しで、逃げる勇気がなかったからいたというかんじです。
ただ、そんな中でも試合に出してもらえる機会があって、さよならヒットを打ったり劇的な場面に会うことがあって、その時にすごく感動して、嫌いだった人とも抱き合って喜んでハイタッチするし、良い人に見えるという。自分の中にもいろんな矛盾があったのかもしれません。
メンタルを支えてもらったからこそ
ー 現役時代、鈴木颯人さんからメンタルコーチングを受けたと聞きましたがどのような変化があったのでしょうか
印象に残ってるのは、日本代表の選手から劇的ホームランを2本も打ったこと。そこにはイメトレの効果と、それまでにコーチングを通して積み上げて来たもんがあったんやと思います。颯人さんは偉大な存在です。
ー 引退して、その後の人生でスポーツメンタルコーチになろうと思ったきっかけは何ですか?
引退してからの一年は体を変えることを優先しました。早く男になりたいと思って。そして、今までできなかったことをとことんやり尽くしました。
結果、何も残らない、充実感がない、何も成長していない自分がつまらないと思って、スポーツメンタルコーチとして独立してやっていきたいということにそこで気づきました。
性別も変わったしこれで堂々として生きていけると思いました。現役中から颯人さんみたいになりたいとは思ってたんですけどね。そこから人生がらっと変わっていきました。
ー 現在、スポーツメンタルコーチとしてジュニアからプロ選手に対して関わりを持たれる中で大切にしていることは何ですか?
愛情を持つということです。言葉をかける時に、ここに愛があるのかどうかというのを確認しながら話すということを大切にしています。
メンタルコーチングを始めた頃は結果を出さないといけないという思いがあって結構無理矢理感でやってる部分が多く、選手との距離感があったなと思います。コーチングしてても、何か違うと気付き、最終的に行きついたのが”愛情が全てやなと。
ー その愛情の深さが周りの人を惹きつけるのでしょうね。
選手から上手くいきました!という報告や自信がなさそうにしていた選手がコーチングが終わるときに”よしやるぞ!”というような表情をしていた時はたまらなく嬉しいです。心の中で声が漏れないように”よっしゃあ!”とやってます。
ー それぞれの選手に合わせたコーチングをしている上田さん。これからさらに活動していく中でSpaceでやってみたいことは何ですか?
IMGアカデミーに行って最高峰の指導現場を見てみたいです!後は、みんなが簡単に参加できるシステムを作ってきたいです。誰でも、いつでも参加できるコンビニのような。たくさんの人が参加できることが大事かなと思います。人生変わるからみんな入ってみてという気持ちが強いです。

ー Spaceは上田さんにとってどのような場所でしょう?
イベントとかめんどくさくてやるタイプではなかったけど、みんなで楽しみたい、みんなで成長していきたいという気持ちが出てくるし、常に選手をサポートする立場だと意識できる場所ですね。一番大きいのは困った時にみんなが助けてくれるところですね。バイブルです!!
ー 最後に上田さんの今後の目標を聞かせてください。
大きなところをいうと、スポーツの世界で世界平和です。今は自分のできることとして一人一人の選手と向き合って人間性の向上であったり目標に向かって導くことをやっていく、その先に世界平和があるというイメージです。
うまい人間関係ができてお互いを思いやればそれが愛に溢れた世界平和に繋がると思っています。
上田恵
Ueda Kei |
スポーツメンタルコーチ
自身がスポーツメンタルコーチ鈴木颯人氏のコーチングを受け、日常のたくさんの幸せと、人間の内面の重要さに気付いたことから、これを多くの選手に伝えたいと思いスポーツメンタルコーチとして活動中。
モットーは
「愛情を注ぎ、選手の心に寄り添うコーチング」
競技経験はバレーボール、ソフトボール、テニス、マラソン、バドミントン、バスケットボール、トレイルランニング。現在はプロダーツ選手、実業団ソフトボール選手、ボウリング選手、高校野球選手など、様々なアスリートのサポートを行っている。
(編集:荒木望美)