今回のSpaceファミリーインタビューは、実業団チームの柔道部コーチとして活躍する中山有加さん。高校から始めた柔道、社会人では見事日本一に!しかし、素晴らしい結果を残した裏側には、「エリートではない劣等感」があったと言います。中山さんの歩んだ競技人生についてはもちろん、アスリートとしてのメンタルの磨き方まで、たっぷりとうかがいました。

 

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もくじ:中山さん人生インタビュー

 

実家は道場。3歳から柔道に触れる

高校生から本格始動。3年で県大会優勝

古賀稔彦さんからスカウトが!

結果を求め「心技体」のプロに入門。日本一に!

●「3ヶ月で人は変わる」メンタル強化で飛躍

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実家は道場。3歳から柔道に触れる

 

―どうぞよろしくお願いします。早速ですが、中山さんの今のお仕事や活動についてうかがえますか?

 

中山:実業団チームであるJR東日本の女子柔道部のコーチをやっています。基本的には、技術を教えていますが、メンタルも含めて選手を見るようにしています。

 

―どういった経緯で今のチームに所属されたのですか?

 

中山:大学を卒業して、アスリート雇用のような形でJR東日本に所属しました。2011年から19年ぐらいまで選手をしていたので、今のチームでプレーするようになって、4月からは11年目になろうとしています。2年前からコーチになり、出社は週に1〜2回で、それ以外はもうずっと練習という環境でやらせてもらっていますね。

 

―競技に専念できる環境なんですね。

 

中山:そうですね。でも、元から環境がよかったわけではなくて、自分が選手として入った時は、週5で働いていました。その時は半日だけ働いて、午後から練習に行くとかいう感じだったんですけど、ちょっとずつ結果を出すにつれて、会社側がいろいろサポートしてくれるようになって、今はすごくいい環境でやらせてもらっているという感じです。

 

―結果を出して環境を変えていかれたんですね。ところで、中山さんは何がきっかけで柔道を始めたんでしょうか?

 

中山:3歳から始めて、きっかけは、家が道場だったことです。父親が道場の先生をやっていたので、気がつかないうちに始めていましたね。小学校ぐらいまでは走り回っていただけで、柔道をやっていたわけではないんですよ。それで、中学に入って柔道部がなかったので、ソフトボール部に入部しました。その時も、父親は「女の子は柔道を別にやらないでもいいよ」と言っていたので、自分は柔道を強制されたわけじゃなくて、高校に進学するにあたって柔道を自分で選び、そこから始まった感じですね。小学校の時にも、水泳や陸上、自分が「楽しい」と思ったことをやっていました。高校生になって、やっと一本に絞ろうかなと柔道を選んだので、高校から始めたようなものですね。

 

3歳の頃、柔道着でポーズ 幼い頃の可愛らしい柔道着姿

 

高校生から本格始動。3年間で県大会優勝!

 

 

―高校で柔道を選んだ決め手はありましたか?

 

中山:最初は高校の柔道部の先生が知り合いで、声をかけてきてくれたっていう単純な理由でした。それで部活を見学に行って、もう決めてしまった感じですね。そこにはソフトボール部もなかったですし、いろんな偶然が重なりました。高校3年間は、特に結果が出せたわけではないんですけど、柔道にのめり込んでしまって。一応進学校で、勉強で入ったんですけど、勉強より柔道のほうが楽しいってなって、大学は柔道で行くことにしたんです。ちょっと受験から逃げた感じで、柔道で行ってしまおうっと(笑)。県大会は優勝して、全国では1回も勝てなかったんですが、自分は身長が173cmあるので、その身長だけで大学の先生が目をつけてくれて、そちらに行こうと決めました。

 

―本格的に初めて3年で県大会優勝!その分、練習は厳しかったのではと思うのですが…

 

中山:最初、入部した時に、3年生の先輩で女子が2人いたんですけど、夏ですぐに引退してしまい、そこからずっと女子1人でした。始めの頃は、男子に投げられていたんですけど、次第に勝てるようになって、最終的に自分がキャプテンをやらせてもらいました。かなり男勝りな感じでやってましたね(笑)。先生が男女区別なく接してくれていたので、そのおかげで強くなれたなというのはあります。

 

―男子の中で鍛えられての県大会優勝だったんですね。当時の得意技はありましたか?

 

中山:その当時は、大外刈りという技が得意でしたね。高校時代は階級が57kg級で、身長が173cmあったので、自分より身長の低い相手が多かったこともあり、その技がかかりやすかったんですね。その時はまだちょっと華奢で、そんなに筋肉もなかったんですけど。ひときわ大きかったと思います。

 

―ご家族が応援に来られることも?

 

中山:父親はけっこう無口で、あんまりしゃべらないんですけど、どんな大会でも、インターハイだとか、全国どこであっても試合は見に来てくれていました。でも毎回「お前はまだまだだな」って言われるだけでした(笑)。普通に暮らしていれば、柔道になかなかまず触れる機会ってないじゃないですか。実家が道場だったことで、柔道に触れられ今があるというのもありますし、あとは高校時代とかも、家で練習しようと思えば練習できるという環境で、それはすごくありがたかったなと思います。

 

 

古賀稔彦さんからスカウトが!

 

 

―中山さんが、柔道にのめり込んだ理由は何だったんでしょう?

 

中山:なんですかね…。柔道は、難しかったんです。ソフトボールとか、球技は自分はすごく得意で、やろうと思ったらけっこう簡単にできてしまうことが多くて、人よりはちょっと運動神経はよかったので、なんか簡単にできてしまったんですけど、柔道ってなかなかうまくいかなくて、結果そこがおもしろかったのかなと今は思います。

 

―そのマインドもまた素敵です。そして、高校3年間鍛えた柔道で、大学に進学されたんですね。

 

中山:そうですね。単純に柔道が楽しく続けたくなりました。親は、国公立に勉強で行くようすごく望んでいたんですけど、なんかもう受験勉強が嫌になったのと、たいした結果は出ていなかったけど、173cm57kgっていうパンフレットを見て声をかけてくれた大学が、先日亡くなってしまった古賀稔彦先生の大学だったんです。それで古賀先生からも電話がかかってきて、「一緒にやらないか?」と声をかけてもらって、もう「ぜひ!」って、自分だけの独断でもう決めちゃいました。親はすごく反対していましたけど。

 

―古賀稔彦さんから直々のオファー!いざ入部して、いかがでしたか?今度は女子部員もいるわけですよね。

 中山:そうなんです。先生は、弁もたつ方なので即答しました(笑)ただ、入部後すぐは、もうぜんぜん歯が立たないというか、下から数えたほうが早いレベルで弱かったですね。でも、それは入部前から想像していたので、すぐに受け入れられました。自分が弱いことはわかっていたし、ほかの人は全国レベルで活躍している選手だというのは知っていたので、ぜんぜん。でも、いつかひっくり返ればいいかという感じでやっていたので。

 

―どんな努力を重ねたんでしょう?

 

中山:その道場の中にいる選手の中で、自分が一番練習しようと思いました練習時間というのはだいたいみんな同じで限られていますし、一番目立つ練習だとか、一番心を込めているというか、そういう意味で、試合で一番になれないのなら、練習の中では一番になれるようにと思っていました。

 

―心を込めた練習、なるほど。その後の結果は…?

 

中山:結果になったのは4年生の時ですね。全国大会に初めて出ることができました。それまでずっと中四国の予選でずっと負けていて、全国大会に出られなかったんです。4年生の時に初めて出場した全国大会でベスト8に入り、もう一つ上の、社会人や一般の人も出る大会に初出場することが決まって、その試合で5位になりました。同時に、全日本の強化選手にも選ばれたんです。そこまでは一切芽が出ませんでしたね。ちょうど 4年生まで出なかったので、就職しようって考えた時に、教員を考えたんですけど、古賀先生から「お前はもうちょっと続けたほうがいい」というふうに言ってもらえて、結果もなかったのに実業団に入ることになったんです。


―柔道というと個人競技のイメージが強いですが、チームで成し遂げた思い出はありますか?

 

中山:大学の時は、4年生までで48人いたんですよ。個人競技ではあるんですけど、チームとして戦おうと監督もおっしゃっていて、「団体戦に出るメンバーだけじゃない、他の選手も自分のチームなんだ」というのを言われてきたので、選手じゃない補欠のメンバーがちゃんと練習してないと怒ったりできる間柄ではあったと思います。団体・団結力というのは大学時代、大事にしていましたね。

 

大学・柔道部での集合写真 大学・柔道部での集合写真(前列右が中山さん・後列左に古賀稔彦さん)

 

結果を求め「心技体」のプロに入門。日本一に!

 

―先生の助言もあって、新卒でJR東日本に入られてからは、どんな選手生活だったんでしょう?

 

中山:JR東日本がまだできて2〜3年の部だったので、サポート環境っていうのはぜんぜん整っていなかったですね。2〜3年は特に結果が出ず最初はやっていたんですけど、そろそろ結果を出さないと、ということで「心技体」それぞれのプロに教えをもらおうと思い、心=メンタルのことを学びたいと、たどり着いたのが颯人さんだったんです。それが、2014年頃ですね。

 

―技と体のほうはどんなプロに学んだんですか?

 

中山:技のほうは、さっき言っていた大外刈りとは違って、内股という技を覚えたいと思って、それが得意な先生のところに練習に行かせてもらったり。あとは寝技が好きだったので、柔道以外の寝技の競技で、例えば柔術(ブラジリアン柔術)とか、サンボ(ロシアで開発された格闘技)とか、いろんなほかの競技があるんですけど、そこに教えてもらいに行きました。体力の部分で言うと、フィジカルトレーニング、筋トレのパーソナルトレーニングで1対1でやってもらえるやつを探して、それも専門家のところに行きました。当時は、会社の部の柔道場がまだなくて、会社へ行ったら、そのあとは自分で練習場所を探して、好きなところへ行っていいよという感じだったんです。 

 

―他の競技から取り入れたんですね!

 

中山:そうですね。例えば、寝技主体の柔術やサンボは、技術の深みがぜんぜん違います。やっぱり知らない技って試合でかかるんですよね。柔道界の中で流行っている技じゃなくて、他の畑から持ってきたものって、わりと誰も知らないので、そこでのアドバンテージはあったかなとは思います。ルールが違うので、そのままでは使えないんですけど、新しい考え方が自分の中で生まれる感じがあります。例えば、柔道は「亀」といって、四つん這いで必死で守ろうとするんですけど、ブラジリアン柔術の場合は亀みたいになって後ろにつかれるだけでポイントを取られるので、守るという姿勢がないんですよ。だから、守らないんですね。結局守らない姿勢に持っていくためにやることが攻撃につながるというか、「攻撃は最大の防御なり」っていうやつが本当に実践されている感じがブラジリアン柔術で、それはすごく学びました。

 

―ところで、今のJR東日本のチームについても教えてもらえますか?

 

中山:メンバーは14人で、普段はめちゃくちゃ楽しくワイワイするチームで、やるときはやるという、メリハリのあるチームですね。社会人になって最初のほうは、もう団結力も何も、1人で行動しなきゃいけなかったので、なかなかそれは難しかったんですけど、今はチームで行動しているので、大学時代の教えというか、やってきたことも生きて、コミュニケーションをうまく取りながらやっています。

 

―中山さんが、コーチになった経緯は?

 

中山:現役の最後はキャプテンをやっていました、1年〜2年ほどですね。副キャプテンをやって、キャプテンをやって、引退するかどうかの時に選手兼コーチみたいなのをやって、コーチになりました。引退した理由はもう、会社側からクビというか。毎年面談があって、「ここの成績まで出ないと今年で終わりです」っていうのはすごく言われていて、それを毎年クリアしてやっていくという感じだったんですけど、そこに単純に達しなかったということです。

 

―厳しい世界ですね。

 

中山:年契約でしたし、クリアする目標も年齢によって違います。2014年に全日本選抜体重別選手権大会の63kg級で日本一になれましたし、最初の社会人3年目ぐらいまでは、どんな結果でも見てくれるんですけど、そこから最低全国大会ベスト8とか。最後は自分は全国で3位以内と言われて、5位、8位、最後行けなかったですね。

  

全日本選抜体重別選手権大会で日本一 全日本選抜体重別選手権大会で日本一

 

「3ヶ月で人は変わる」メンタル強化で飛躍

 

―他競技から技を取り入れたり、心技体を磨かれてきた中山さんですが、結果を出す前など、ご自身のメンタルに課題を感じていたことはあったんでしょうか?

 

中山:そうですね、自分はいわゆる「エリートコース」を歩んで来なかったので、そこに劣等感があって、負け癖とまでは言わないかもしれないですけど、負けることにもだいぶ慣れていて、そのくせ試合には緊張するということはありましたね(笑)。

 

―メンタルを強化する中で、颯人さんに会ってからはどういうふうに変わっていったんですか?

 

中山:2014年の日本一になる3〜4か月ぐらい前に出会って、初めてセミナーに行かせてもらって、その大会に照準を絞ってやっていたんですけど、もうその試合の前には「あぁ、なんか負ける気しないな」と思っていたんですね。たった3か月で。颯人さんはいつも「3か月で人は変われるんだ」と言ってくれるんですけど、それを自分でも感じたのが一番の収穫ですね。思い込みの劣等感があって、もう負けるもんだと思っていたのが「自分は勝てる、勝っていいんだ、勝つための練習だってしてきたんだ」と、すごく思えるようになりました。大会まで3か月しかなかったので、短期的なスパンで何回も受けました。

 

―セッションはどういった内容だったんでしょう?

 

中山:こちらから課題や思っていることを全部話して、「じゃあ、その課題をクリアしたらどうなる?」と颯人さんに聞かれます。それで「あぁ、優勝できる」と思えるように繰り返す感じですね。それまでは、クリアする方法も知らなかったですし、クリアしたあとのことも想像できていませんでしたから。いざ本番の試合の中で、先にポイントを取られたというシーンもあったんですけど、なぜか落ち着いて「絶対取り返せる」というふうに思えたり、いつもならたぶん焦って時間が流れてしまうところを、焦らなかったです。

 

―3ヶ月ですごい変化ですね。日本一になった時は、どんな気持ちでしたか?

 

中山:まぁ、信じられないという感じでした(笑)。まだ実感がぜんぜん湧かなくて、もうちょっと泣けるかなとか思っていたんですけど、ぜんぜん泣くとかなかったですし。「あっ、日本一になっちゃった!」っていう感じでした。それが最初の日本一だったので、メンタルコーチといえば颯人さんだなぁと思って、今までずっとやってもらっているんです。

 

―今は中山さん自身がコーチとして、選手のメンタルをサポートできるように学んでらっしゃるんでしょうか?

 

中山:そうですね。Spaceでは、ちょっとした悩みが出た時に相談したりしています。コンテンツもいろんなものを見ますね。自分で企画したのも2つあって「100日で腹筋を割ろう」という企画と、あともう1個は実現しなかったんですけど、「東京オリンピックのマラソンコースを走ろう」という2つ。やりたいと思ったことがやれる環境というか、いい場所だなぁと思いますね。

 

―ご自身のこれからのことで、何か考えていることはありますか?

 

中山:たぶんこれからも柔道には携わっていくことになると思います。現役の時みたいに、例えば選手を日本一に成長させたいとかは今は特に思っていませんが、この前亡くなった古賀先生が、「一流の選手を作りたかったら、まずは指導者が一流になれ」と言っていて、それは一流の考え方とか、心構えとか、行動とか、まずは一流の人間になれ」というのはすごく言われたので、そういう指導者として一流になるための努力をして、それを選手に還元できるようになりたいなぁとは思っています。

 

―深い言葉ですね。これからも柔道に関わっていく、というのは、すでに目標もお持ちなんでしょうか?

 

中山:今はコーチをやらせてもらっていますが、ゆくゆくは監督とかになるのかなとか勝手に想像してます……まだ何も決まってないですけど。でも、JR東日本もまだチームとして日本一になっていないので、団体戦で日本一になりたいなと思います。それを見て憧れて入ってきてくれる、もしくは柔道を始めてくれるとか、そういう選手が出てくればいいなと思っています。

 

―テレビ放送で中山さんがご指導している姿を見られる日も近いかもしれないですね!

 

中山:実は、今の全日本、オリンピックを見ているチームのコーチに、うちのJRの今ヘッドコーチをやっている福見友子先生という、ヤワラちゃんに、谷亮子選手に2回勝った唯一の選手で、その人が今ヘッドコーチで、オリンピックもたぶんコーチとして出るので、ゆくゆくはそういう感じになっていけたらいいなとは思っています。

 

―なんと!もう道が見えていますね!

 

中山:そのまま行けるかはわからないですけど、そうなれるように、がんばります。選手と指導者では、勉強しなきゃいけないことがぜんぜん違うので。また新しいところでいろんなことを学べるというのは楽しいですし、その反面、なんか「あぁ、まだまだだな」って、また劣等感が出ることもあります。指導者のまわりを見たら、世界チャンピオンとか、オリンピックチャンピオンとか、柔道の世界はすごく多くて、自分はただの全日本チャンピオンだと思うこともあるんですけど、でも、選手の時にそれを乗り越えてきたという経験があるので、これからも乗り越えていけたらなと思います。

 

―最後に1つ、人生で大事にしていることや座右の銘があれば、教えてください。

 

中山:四文字熟語で「水滴石穿」ですね。意味としては、水滴がポタポタ落ちて、そのポタポタが石をも突き抜けるという意味なんです。コツコツやっていれば、その一個一個は小さくても、大きなことが成し遂げられるという。私は天才肌でもないので、コツコツ、一個一個やるしかない。でも、それをやっていればいつか花開くと信じています。


サンボを習う サンボを習う中山さん。水滴石穿の心で、これからは指導者として花を開かせる